洲崎パラダイス [東京散策]
洲崎神社、かつては洲崎弁天と呼ばれた。
元禄13年、江戸城内に祀られていた桂昌院(綱吉の母)の守り神を遷座したと言われています。
江戸期は浮き弁天とも呼ばれ海中の小島でありました。
神社境内の由緒書に
神社境内の由緒書に
「当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賤袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮かべて妓婦の弦歌に興を催す」とあり、
ここらあたりは風光の地でありました。
明治20年、東京大学の校舎が近所に新築されることになり、
「風俗よろしからず」ということで、根津遊郭が移転することになりました。
遊郭の移転先は、この洲崎神社に隣接する埋立地でした。
埋立地は明治、大正、昭和戦前までは洲崎遊郭として、
戦争中の中断を経て戦後は洲崎パラダイスという特飲街として賑わいました。
芝木好子は特飲街時代の洲崎を舞台とした一連の小説を書いています。
『ここの女たちは店明けの宵になると、出の支度をして三々五々この運河を渡って洲崎神社へお詣りにゆく。いわばその日の縁起だった』 (洲崎界隈)
小説片手に、かつて洲崎弁天町と呼ばれた界隈を歩いてみます。
小説片手に、かつて洲崎弁天町と呼ばれた界隈を歩いてみます。
鹿屋へ(鹿児島) [只今出張中]
9月の末から10月の始めまで鹿児島で仕事していました。
休日に大隅半島の鹿屋航空基地を訪れました。
鹿児島からフェリーで大隅半島に渡ります。
フェリーの航跡の先には、徐々に小さくなってゆく鹿児島の街が臨めます。
昭和16年太平洋戦争の開戦前、
桜島がある鹿児島湾を湾内にフォード島を抱える真珠湾に見立てて、真珠湾攻撃の訓練が行われたそうです。
訓練の時期はちょうど今頃、10月の初旬から11月初めにかけて行われました。
フェリーのデッキで、鹿屋海軍航空隊の基地を飛び立った雷撃機が飛び交う様を想像しています。
川原町散歩(岐阜) [東京以外散策]
少し前の話となってしまいましたが、
夏休みの一日、岐阜の町を散策しました。
金華山頂の岐阜城天守閣です。
ルイス・フロイスは、信長に布教の庇護を求めて岐阜を訪れています。
フロイスが見た岐阜の町の面影を訪ねてみたい、・・・が散歩の意図です。
フロイスの「日本史」第一部89章「ルイス・フロイス師が、信長の許で援助を求めるために美濃国に赴いた次第」を参照しつつ、岐阜城を起点に歩きました。
小田原の海 [東京以外散策]
夏休みの最終日、名古屋から東京の帰路、小田原で途中下車をしました。
小田原城天守閣から眺める景色です。
天守閣南面には相模の海が広がっていました。
秀吉と北條氏の小田原合戦では、九鬼、毛利、長宗我部水軍の船がこの海原を埋めたといいます。
榊原康政の書状には、「兵糧を八千石または二千石ほど舶載した大船が一万余隻派遣された」との記載があるそうです。
堀川物語(名古屋) [東京以外散策]
夏休みのある日、名古屋城に早朝散歩に出掛けました。
正門は閉じられており、2時間余り後の9時の開門とのことです。
本丸を一回りしようと思っていたのが、あてが外れました。
門前でぼうぜんとたたずむ私です。
セミの鳴き声の響く木陰で、かき氷屋の屋台を眺めながら思案しました。
よし、堀川散策に変更しよう。
すり鉢の底探検(四谷荒木町) [東京散策]
『津の守でお遊びになる方は、四谷の表通りを富士銀行と「うの丸」との間の狭い路地、通称「うの丸横丁」をお入りになって、右に下るとすり鉢のそこのようなところに、所狭く待合さんが、並んでいるのでございます。』(舟橋聖一「女めくら双紙」)
四谷荒木町は、すりばちのような地形にあります。
かつては花街であったことを小説の描写から知りました。
そのすり鉢の底を目指して散歩を試みます。
四谷の表通りからの入口には人力車の街灯があり、街の来歴を思わせられ散歩の期待が高まります。