洲崎パラダイス [東京散策]
洲崎神社、かつては洲崎弁天と呼ばれた。
元禄13年、江戸城内に祀られていた桂昌院(綱吉の母)の守り神を遷座したと言われています。
江戸期は浮き弁天とも呼ばれ海中の小島でありました。
神社境内の由緒書に
神社境内の由緒書に
「当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賤袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮かべて妓婦の弦歌に興を催す」とあり、
ここらあたりは風光の地でありました。
明治20年、東京大学の校舎が近所に新築されることになり、
「風俗よろしからず」ということで、根津遊郭が移転することになりました。
遊郭の移転先は、この洲崎神社に隣接する埋立地でした。
埋立地は明治、大正、昭和戦前までは洲崎遊郭として、
戦争中の中断を経て戦後は洲崎パラダイスという特飲街として賑わいました。
芝木好子は特飲街時代の洲崎を舞台とした一連の小説を書いています。
『ここの女たちは店明けの宵になると、出の支度をして三々五々この運河を渡って洲崎神社へお詣りにゆく。いわばその日の縁起だった』 (洲崎界隈)
小説片手に、かつて洲崎弁天町と呼ばれた界隈を歩いてみます。
小説片手に、かつて洲崎弁天町と呼ばれた界隈を歩いてみます。
洲崎神社から東に向かいブラブラと歩いていると、ほどなく間口一間ほどの飲み屋が連なっている一郭にたどり着きます。
遊郭周辺には付き物の飲み屋街です。
『運河に沿ったあたりはバラックの飲み屋が多い。かつては洲崎遊郭と呼ばれた一郭はぐるりが掘割で囲まれた島になっている。コンクリートの堤防の下は水の流れだった。正面の橋のたもとまできた蔦枝は、その付近に並んでいる小さな酒の店の一つののれんを分けて入った。狭い一坪半ほどの店で、鉤の手に台があって、丸い椅子が並んでいるきりだった。壁に清酒とかビールとか、湯豆腐とか書いたびらが下がっている。』(洲崎パラダイス)
休日の昼下がりで店は開いていませんが、芝木が書いたそのままの飲み屋街がありました。
もはやバラックではないですが、店の大きさはそのままのようです。
小説に描かれた頃は、店の裏は洲崎川という掘割になっていました。
休日の昼下がりで店は開いていませんが、芝木が書いたそのままの飲み屋街がありました。
もはやバラックではないですが、店の大きさはそのままのようです。
小説に描かれた頃は、店の裏は洲崎川という掘割になっていました。
その堀割の先が洲崎弁天町でした。
飲み屋が連なる一郭から洲崎橋をわたると洲崎パラダイスです。
洲崎川が埋め立てられて、公園となっていました。
洲崎橋跡地の碑に当時の橋名板が残されていました。
洲崎橋が架かっていたあたりです。
『大通りの先にコンクリートの橋があって、大門の代りにネオンのアーチが赤や青に輝いている。橋外の袂には小さな酒の店が運河を背に並んで、灯をつけていた。』(洲崎界隈)
洲崎橋は写真のガードレールのところです。
芝木のいうネオンのアーチには「洲崎パラダイス」と書かれていたそうです。
その元洲崎橋を渡って、洲崎パラダイスに足を踏み入れました。
芝木の小説から街中の地理は既に私の頭に入っています。
『アーチから真直ぐに伸びた大通りは突き当りが堤防で、右は弁天町一丁目、左は二丁目、ぐるりは水で囲まれた別世界になっている。左手は横町横町が軒を並べた特飲街で、七、八十軒もの店があったが、右手は打って変わった貧弱な住宅地である。』(洲崎パラダイス)
芝木の記述に従って、迷わず洲崎橋を貫く大門通りの右側を探索しました。
『この店も例外に洩れずタイル張の安っぽい店付で、女主人の部屋は上ってすぐの中廊下の向かいの位置にあった。次の間の窓からは洲崎の海が見えたが、そこには・・・』(洲崎の女)
芝木好子が描くところの建物らしきものを探しましたが、もちろんありませんでした。
近年までは遊郭時代の建物も残っていましたが、東日本大震災で被害を受けて取り壊されたそうです。
このような建物を保存しようという人はいないのでしょうか。
小説からその外観、内部構造を想像するしかないのでしょうか。
芝木好子は洲崎パラダイス他の「洲崎もの」で、作家として境地を広げたように思います。
作品集1巻に洲崎パラダイス、黒い炎、洲崎界隈、歓楽の町、蝶になるまで、洲崎の女が所収されています。
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