川原町散歩(岐阜) [東京以外散策]
少し前の話となってしまいましたが、
夏休みの一日、岐阜の町を散策しました。
金華山頂の岐阜城天守閣です。
ルイス・フロイスは、信長に布教の庇護を求めて岐阜を訪れています。
フロイスが見た岐阜の町の面影を訪ねてみたい、・・・が散歩の意図です。
フロイスの「日本史」第一部89章「ルイス・フロイス師が、信長の許で援助を求めるために美濃国に赴いた次第」を参照しつつ、岐阜城を起点に歩きました。
金華山の山麓には信長の館がありました。
『二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりははるかに優れています。
・・・三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。
・・・四階の前廊からは全市を眺望することができます。』
とフロイスの記述から信長の館は四階建であったことが判ります。
今は岐阜公園となっています。
園内の茶店には「菜めしでんがく」を供する旨の看板があり、大いに気をそそられましたが、我慢をしました。
岐阜公園から歩くことわずかで長良川河畔にでます。
『近江の国を二日間旅行し、大部分が平地で山地が少ない美濃の国の領内に踏み込みました。そこには新鮮な緑の森と大河(長良川)があり、それを帆船で渡りました。』
フロイスの記述から、長良川は交通の動脈であったことが知れます。
鵜飼見物の屋形船をフロイスの言う帆船に置き換え、当時の川湊の賑わいを想像して見ました。
長良川沿いの一郭に通称川原町と呼ばれる古い街並みが残っています。
斉藤道三、信長の時代から市が開かれた場所です。
『私たちは岐阜の市に至りましたが、人々が語るところによれば、八千ないし一万の人口を数えるとのことでした。』(フロイス「日本史」)
『私たちは岐阜の市に至りましたが、人々が語るところによれば、八千ないし一万の人口を数えるとのことでした。』(フロイス「日本史」)
『私たちは和田殿が指示した家に宿泊しました。同所では取引きや用務で往来する人々がおびただしく、バビロンの混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まっていました。』
フロイスが泊ったのは商家だったのでしょうか、あるいは商人宿だったのでしょうか。
その建物の表構えはこんな感じだったのでしょう。
家々の軒先には提灯が下げられています。
涼しげで優雅な光景でした。
お昼時となり、そろそろ、お腹も空きました。
散歩を切り上げ、柳ケ瀬を目指します。
目指すはマルデブ総本店、大正6年創業の中華そばの老舗です。
後からやって来た若い男女の三人組が、店の張り紙を見て「あっ」と言ってました。
「あっ」 と言いたいのはこっちのほうです。
先程、岐阜公園で見かけた「菜めしでんがく」食っておけば、と悔やまれる事しきりでした。
ここでフロイスの一文です。
『私たちを招くことになっていた中川殿という貴人は、二度使者を私たちがいる家に派遣し、食事の用意ができ、私たちを待っている、と伝えました。』
おーい、中川さんちはどこにあるの。
完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2) (中公文庫)
- 作者: ルイス フロイス
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2000/02
- メディア: 文庫
2016-09-11 10:32
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