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大分について [只今出張中]

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大分空港からバスは別府湾に沿って走ります。
目的地は大分市です。
高速道路は山の上を走っていました。
左手の眼下に別府の町並みが、その先に海が広がっています。
別府を通過するあたりでは硫黄の匂いがし、よく見ると町のそここに湯煙も見えました。

大分県といえば温泉の別府・湯布院、神仏習合文化の国東半島、広瀬淡窓の咸宜園がある日田、荒城の月のモデルとも言われる竹田の岡城と詩情が感じられる土地を思い浮かべます。
しかし、県都大分市のイメージは一向に思い浮かばないのです。

その大分市に到着しました。
駅から北に延びる、赤レンガ通りには、大分銀行の赤レンガ館があります。
写真は赤レンガ館です。
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赤レンガ館からしばらく歩くと府内城が現れます。
かつて、大分の町は府内と呼ばれました。
キリシタン大名として知られる大友宗麟の城下です。
日本におけるキリスト教布教の拠点でした。
城下にはコレジオ(学院)などの施設もあったといいます。

府内の町の繁栄ぶりをフロイスの「日本史」の記述で見てみます。
『府内の町にはおよそ八千戸の家があると考えられましょう。この町は臼杵の城から12マイル離れた所になります。そしてこの町は豊後の中心的町であり、現在において若い王とその家臣すべてが住んでいるのです。』

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フロイスの言う「若い王」とは大友宗麟のことです。
府内城の天主台下には、あまり若くもない、大友宗麟の像がありました。
宗麟が受洗したのは天正6年(1578年)のことです。
天正8年には豊後の入信者の数は1万人を超えたといいます。

大分 057.jpg


もちろん南蛮貿易で賑わうことになりました。
府内城の西に「荷揚町」の町名があります。
交易所があったことを想像させる名前です。
府内の町は堺商人、中国商人、ボルトガル商人が行き交う商業都市であったことが窺えます。

現在の府内城跡は徳川時代のお城です。
当時の大友館はもっと南にあったと思われます。
いまの大分駅あたりだったでしょうか。
大友氏時代の府内の町は、戦国末期の豊薩戦争で島津家久が焼き払っていまいました。
近世、府内藩の城下となりますが、第二次世界大戦の空襲の被害を受けています。
町を散策をしても、昔の面影を見つけることは難しいと思いました。

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昔の面影を求めてふらついていましたら、あったではないですか、南蛮船が。
街のアーケドの中にありました。
モニュメントが。
行き交う人は一向に関心を示しません。

覚えていますか、日本史の授業を。
「天正の少年使節」の話です。
「天正10年、正使伊東マンショを含む4名の少年使節をローマ法王庁に派遣。」
大友宗麟の親書を携えて法王に謁見した使節らはローマ市民に熱烈に歓迎された話です。

伊東マンショは豊後王(宗麟)の甥ということになっていますが、宗麟自身はあったこともない人物だそうです。
現在に残る親書の花押は宗麟のものではないとが判明しています。
このことから、宗麟自身は何故使節を送ったかも知らず、親書も作成していないものと思われるのです。
どうもバリニャーノ神父の日本における布教活動成功を宣伝するために仕組まれた使節派遣だったようです。

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大分で食べたもの、「とり天」です。
写真は帰途の大分空港で慌ただしく食べた「とり天定食」。

鯖、鯵のたぐいは苦手なので、「関サバ」も「関アジ」もパスしました。


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