小田原の海 [東京以外散策]
夏休みの最終日、名古屋から東京の帰路、小田原で途中下車をしました。
小田原城天守閣から眺める景色です。
天守閣南面には相模の海が広がっていました。
秀吉と北條氏の小田原合戦では、九鬼、毛利、長宗我部水軍の船がこの海原を埋めたといいます。
榊原康政の書状には、「兵糧を八千石または二千石ほど舶載した大船が一万余隻派遣された」との記載があるそうです。
今の小田原城は、江戸時代の城郭を元に復元がされていますが、
江戸期は譜代大名が城主となっており、さほど興趣は湧きません。
つい、戦国時代の小田原合戦に心は飛んでしまいます。
小田原の陣は戦後時代に終止符をうつ合戦であったと思います。
この合戦を最後に、大規模な戦争は絶えています。
すでに天下の形勢は秀吉の手許にあり、これに手向かう北條氏の時代感覚の無さを指摘することはやさしいですが、
戦国の幕を引くに、無くてはならない合戦ではなかったでしょうか。
いわば「必要悪」のような合戦ではあったと思っています。
幕引きのセレモニーです。
いわば「必要悪」のような合戦ではあったと思っています。
幕引きのセレモニーです。
小田原城に籠る者、その数、2、3万とも、6万とも云いましたが、それをすき間なく囲む軍勢の動員力を考えるだけで、
天下の形勢を知る事ができると思います。
包囲軍と籠城軍の小競り合いはあったものの、ここでは大きな戦いはありませんでした。
包囲軍と籠城軍の小競り合いはあったものの、ここでは大きな戦いはありませんでした。
小田原城の落城は、一夜城といわれる石垣山城が姿を現した数日後であったといいます。
その城が築かれた石垣山を眺めています。
その城が築かれた石垣山を眺めています。
ある朝、こつ然と現れた城郭を見た北條の当主、氏直の気持ちを思い浮かべながら。
あいにく魚ではなく、冨士屋ホテルのカレーでした。
『家康には富子(督姫)という次女がいて、北条五代目の氏直に嫁いでいた。この北條氏が秀吉に臣従せず、秀吉が本拠をおく小田原城攻略に向かって、これを落とす。天正十八年七月のことで、氏直は死一等を減ぜられて高野山に追放される。富子はついていくことができない。実家にもどって小田原後家といわれていた。』(佐藤雅美「戦国女人抄おんなのみち」)
そうです、気になったのは氏直の妻督姫のその後です。
そう、食い物ではなくて・・・。
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