奇蹟の十四カ月(台東区竜泉三丁目) [東京散策]
兄、父を失い、戸主になった樋口一葉が商売で一家の生計を立てようと、本郷から竜泉寺町の転居してきたのは明治26年7月20日のことでした。
小説一本で一家を支える道を断念した結果の選択でした。
しかし、商売はおもわしくなく、やがて行き詰まり、店を畳んで、本郷に転居してしまいます。
一葉が竜泉寺町に住まうこと、わずか10カ月のことでした。
一葉が竜泉寺町に住まうこと、わずか10カ月のことでした。
今ここに、一葉記念館があります。
写真は、一葉記念館に展示の龍泉寺における住まいです。
一葉の商いは荒物と駄菓子でした。
一葉の商いは荒物と駄菓子でした。
店舗の障子に「あらもの、だがし」の文字が書かれ、店内には商品が並べられています。
二軒長屋の隣は車屋、右隣は酒屋となっていました。
かくいふは魔性の人か神の言葉か(西池袋界隈) [東京散策]
出張、旅行の前には、山川出版の歴史散歩シリーズを開いてみることが習慣となっています。
先日の福岡出張の前にも「福岡県の歴史散歩」をパラパラと眺めていたら、飯塚市の項に旧伊藤伝右衛門邸が紹介されていました。
白蓮事件の柳原白蓮が一時期を過ごした処です。
「同棲十年の良人を捨てゝ白蓮女史情人の許に走る」
白蓮の駆け落ちを報じる大正10年10月22日付け東京朝日新聞の見出しです。
白蓮の夫への絶縁状が掲載され、夫伝右衛門の反論が毎日新聞に載り、当時の世間を賑わせました。
記事の見出しの情人とは東大生の宮崎龍介です。
白蓮が龍介を知るようになったころの短歌を今回のタイトルとしました。
『君故に 死も恐るまじ かくいふは魔性の人か神の言葉か』
龍介の居る東京に来た白蓮は、やがて龍介の実家に住まい、そこで生涯を過ごしました。
その住まいが西池袋にありました。
大正天皇の従兄妹にあたる高貴の人、気に染まない結婚であるが飯塚で豪邸に住んだ女性が、その後半生を過ごした住環境を覗きたくて、西池袋界隈を散策してみます。
写真は白蓮の住まい近くの目白庭園に咲く寒緋桜です。
花言葉は「あでやかな美人」「高貴」なのだそうです。
甲州街道を歩く [東京散策]
JR新宿駅の南口を出て、甲州街道を西に向かって歩いています。
甲州街道は五街道のひとつと言われながら、ここを参勤交代に利用したのは、信州高遠藩、高島藩、飯田藩のわずか三藩です。
江戸城陥落の際、将軍の甲府への避難経路として整備されたという説もあります。
江戸城陥落の際、将軍の甲府への避難経路として整備されたという説もあります。
四谷から大久保にかけて数多くの鉄砲組(注)の配置、八王子の千人同心などの存在を考えると頷ける話です。
この話を前提とすると、五街道のひとつとして重要視されたこともわかります。
この話を前提とすると、五街道のひとつとして重要視されたこともわかります。
そして前回の東京オリンピックのマラソンコースでした。
1964年10月21日、この道路をアベベが走り、円谷が駆け抜けたのです。
1964年10月21日、この道路をアベベが走り、円谷が駆け抜けたのです。
国立競技場をスタートし、明治通りから甲州街道に入り、調布市で折り返すコースでした。
その日、人波で埋まったであろう沿道を歩いています。
(注)クリックで鉄砲隊の話に
(注)クリックで鉄砲隊の話に
早稲田ラーメン紀行 [東京散策]
東京のガイドブックを眺めていたら「やまぐち」というラーメン屋が美味いと紹介されていました。
写真に写ったラーメンの澄んだスープが魅力的です。
お昼はここにしようと決めて出掛けました。
「やまぐち」は西早稲田2丁目にあるので、高田馬場と早稲田駅の中間地点にあたります。
地下鉄の早稲田駅を出て、早稲田通りを西に向かうと穴八幡神社があります。
地下鉄の早稲田駅を出て、早稲田通りを西に向かうと穴八幡神社があります。
鳥居の外から、「味に、はずれはありませんように」と祈って先を急ぎます。
市ケ谷の地下散歩 [東京散策]
JR市ケ谷駅付近の空を飛んでいます。
外堀を横切る市ヶ谷橋の左にはフィッシュセンターの釣り堀が見えます。
橋の下にはJR市ケ谷駅のホームがあります。
橋を渡って左折する広い通りが靖国通りです。
橋を渡って左折する広い通りが靖国通りです。
JRはホームが一面だけで、中央緩行線のみが停車する駅です。
JRだけでは一日の乗車人員は6万人程度なのですが、地下には三本の地下鉄が通っており、
市ヶ谷全体での乗降客は相当な人数になると思われます。
靖国通の下を走ってきた都営新宿線は、写真中央部の外堀の下を横断し神田方面に向かっています。
外堀の真下には有楽町線が通っています。
外堀の真下には有楽町線が通っています。
そして、外堀の手前、外堀通の地下は南北線です。
夫々の路線の市ヶ谷駅のホームとそれらを繋ぐ連絡通路からなる一大地下空間が、水を湛えた外堀の下に広がっているのです。
それでは、地下へ潜ってみましょう。
2016年初詣 [東京散策]
熊野古道を歩いた友人から頂いたお酒です。
青く広がる海に昇る朝日、名付けて「太平洋」
「神々の国熊野」の文字も躍っています。
「正月用に」と、とって置いたお酒を頂きました。
これで、初詣気分となることが出来ました。
勢い付けて出かけます。
冬の足音 [東京散策]
先月(10月)の大伝馬町のべったら市の店頭です。
杉浦日向子の「大江戸美味草紙」の「冬の足音」の章はべったら漬の話で始まります。
先日のべったら市の頃は、冬の気分には未だほど遠い陽気でした。
何で「冬の足音」がべったら漬と、疑問を持ちつつ読み進むうち、はたと気づきました。
何で「冬の足音」がべったら漬と、疑問を持ちつつ読み進むうち、はたと気づきました。
江戸は10月は10月でも、旧暦の10月なのです。
うかつでした。
「江戸の冬は気合で乗り切る。その気合い初めの一歩がべったら漬だ。
これは、冬の洗礼儀式だから作法にやかましい。
べったら漬ひときれ頬張れば口いっぱいとなり、話しも出来ず、ひたすら無心に噛みくだくのを理想とした。」
杉浦日向子の文章は歯切れがよく、心地よく読めます。
「浅漬けをすなおに切って叱られる」と、古川柳の引用で始まる文章は、
「たくあん三切れが、べったら漬一切れの目安だったそうだ。浅漬は厚切りに限る」
で括られていました。
で括られていました。
果たして、我が家のべったら漬の厚さはどうだったかと、思い返しています。