甲州街道を歩く [東京散策]
JR新宿駅の南口を出て、甲州街道を西に向かって歩いています。
甲州街道は五街道のひとつと言われながら、ここを参勤交代に利用したのは、信州高遠藩、高島藩、飯田藩のわずか三藩です。
江戸城陥落の際、将軍の甲府への避難経路として整備されたという説もあります。
江戸城陥落の際、将軍の甲府への避難経路として整備されたという説もあります。
四谷から大久保にかけて数多くの鉄砲組(注)の配置、八王子の千人同心などの存在を考えると頷ける話です。
この話を前提とすると、五街道のひとつとして重要視されたこともわかります。
この話を前提とすると、五街道のひとつとして重要視されたこともわかります。
そして前回の東京オリンピックのマラソンコースでした。
1964年10月21日、この道路をアベベが走り、円谷が駆け抜けたのです。
1964年10月21日、この道路をアベベが走り、円谷が駆け抜けたのです。
国立競技場をスタートし、明治通りから甲州街道に入り、調布市で折り返すコースでした。
その日、人波で埋まったであろう沿道を歩いています。
(注)クリックで鉄砲隊の話に
(注)クリックで鉄砲隊の話に
甲州街道の沿道も、当時とはずいぶんと変わったと思います。
光景の変貌のひとつが、高層ビルでしょう。
学生時代、このあたりにあったミネラルウオーターの工場でアルバイトをしたことがあります。
学生時代、このあたりにあったミネラルウオーターの工場でアルバイトをしたことがあります。
新宿駅を降り、参宮橋の近くにあった工場へ通った頃、高層ビルといえば京王プラザホテルだけであったように記憶しています。
夏の暑い盛り、水を扱う工場ながら、ビン詰の工程は結構な肉体労働で、汗だくで作業をしていました。
富士山の水を毎日、タンクローリー が運び込んでしました。
ローリーは甲州街道を辿って来ていたのでしょうか。
本社ビルは街道沿いに残っていますが、工場は他所に移転してしまったようです。
あのオリンピックの時、道路もこんな感じではなかったはずです。
次のオリンピックでは、選手たちは、こんな圧迫感がある空間を走るのでしょうか。
かわいそう。
かわいそう。
笹塚駅付近で見かけた水路です。
玉川上水の切れっ端です。
甲州街道と並ぶように上水は流れていましたが、現在はほとんどが暗渠となっていました。
枯草に覆われた土手が昔の風景をわずかに残しています。
枯草に覆われた土手が昔の風景をわずかに残しています。
笹塚を過ぎ、ようやく甲州街道と中野通りの交差点まで来ました。
相変わらず頭上の道路が、鬱陶しいぞ。
相変わらず頭上の道路が、鬱陶しいぞ。
明大和泉キャンパスです。
江戸期、ここに幕府の煙硝蔵がありました。
街道の軍事面の機能を考えると頷ける位置でしょうか。
皮肉にも、維新時、ここの火薬が官軍の接取するところとなり、上野の彰義隊、東北における戊辰戦争に使われることになったのです。
皮肉にも、維新時、ここの火薬が官軍の接取するところとなり、上野の彰義隊、東北における戊辰戦争に使われることになったのです。
明治には陸軍の火薬庫となります。
それで明大前駅は当時、火薬庫前がその駅名でした。
大正末年に火薬庫が閉鎖され、その跡が民間に払い下げられます。
関東大震災で被害を受けた築地本願寺の廟所、明大の校舎、その北側は某損害保険会社の運動場となりました。
東京オリンピックがあった1964年には保険会社の運動場は譲渡され、明大のグランドとなりました。
それで明大前駅は当時、火薬庫前がその駅名でした。
大正末年に火薬庫が閉鎖され、その跡が民間に払い下げられます。
関東大震災で被害を受けた築地本願寺の廟所、明大の校舎、その北側は某損害保険会社の運動場となりました。
東京オリンピックがあった1964年には保険会社の運動場は譲渡され、明大のグランドとなりました。
こうして見ると火薬庫は随分と広大であったのですね。
歩き疲れたので、火薬庫前駅から電車に乗って帰ります。
歩き疲れたので、火薬庫前駅から電車に乗って帰ります。
この先は、またいずれ、歩いてみたいと思っています。
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