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奇蹟の十四カ月(台東区竜泉三丁目) [東京散策]

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兄、父を失い、戸主になった樋口一葉が商売で一家の生計を立てようと、本郷から竜泉寺町の転居してきたのは明治26年7月20日のことでした。
小説一本で一家を支える道を断念した結果の選択でした。
しかし、商売はおもわしくなく、やがて行き詰まり、店を畳んで、本郷に転居してしまいます。
一葉が竜泉寺町に住まうこと、わずか10カ月のことでした。
今ここに、一葉記念館があります。 
写真は、一葉記念館に展示の龍泉寺における住まいです。
一葉の商いは荒物と駄菓子でした。
店舗の障子に「あらもの、だがし」の文字が書かれ、店内には商品が並べられています。 
二軒長屋の隣は車屋、右隣は酒屋となっていました。 
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一葉の家は茶屋町通りに面していました。
通りを進むと新吉原のおはぐろどぶに突き当たります。
一葉記念館に展示の街並み模型によると、一葉の住まう家の裏手の建物には「万年楼寮」の表示があります。
万年楼は吉原の揚屋です。
 
『この龍泉寺に住んでいるのは、仕出し屋など遊郭に結び付いた生業で食べている人たちばかり。左隣りの家は酒屋だし、二軒長屋の隣の家も遊客や芸者を運ぶ俥屋である。ここで商売を始めるからには、荒っぽい車夫などもお客としてつきあっていかいかなければならないと、一葉は肚をくくる。』(「あの女性がいた東京の街」川口朋子)
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現在の茶屋町通りです。
今は何の特徴もない町中の通りで、散歩時は休日の店舗も多く、人通りもありませんでした。
当時の街並図を見ると、この通りは「野沢駄菓子屋」「上清荒物屋」とライバル店が有った事がわかります。
一葉先生、マーケットリサーチが甘かったようです。
10カ月後の店舗撤退は運命付けられていたと、地図を見て納得しました。
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一葉宅から茶屋町通りを歩くと、2、3分で吉原の揚屋町通りに繋がっていました。
今はソープランドの看板が連なる通りとなっています。
通り入口の両側には「よし町揚屋町」の門柱があり、ここから先は吉原とわざわざ断っているのが可笑しいと思います。
写真手前の左右の通りが「おはぐろどぶ」の跡です。
遊女逃亡防止の堀ですね。
『どぶといっても幅五間というから約九メートル、動きにくい着物を着た栄養不良の遊女にはたやすく渡れる幅ではなかったのだろう。』と川口朋子さん憤っています。
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一葉旧居近くにあった不動尊です。
境内で一休みしました。
 
吉原と密接に繋がった町で過ごした体験が一葉の小説の飛躍に結びついたようです。
商売は失敗しましたが。
再び本郷に転居した後、発表した小説が光を浴びます。
明治27年12月に「大つごもり」を発表後、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」と名作の発表が明治29年1月まで続き、この間を「奇蹟の十四カ月」と言いいます。
森鴎外も高く評価した作品を残し、一葉は明治29年11月に24歳の若さで世を去りました。
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帰り道に立ち寄った神社には桜が咲いていました。
父親が健在であったころの麹町の住いからは、お寺の境内の桜が望め、一葉は「桜木の宿」と言って懐かしんだそうです。
 
一葉の雅号について、友人から「一葉の葉は桐?」と聞かれて、「葦の葉」と答えたエピソードがあります。
葦に乗って長江を渡った達磨の故事を踏まえ、また貧窮で「お足」が無いことにひっかけて葦の一葉なのだそうです。

経済的には苦労を重ねた一生でしたが、目指した小説の世界では「奇蹟の十四ヶ月」という幸運の時を持つことができました。
現在の5千円札は樋口一葉の肖像です。
お金に苦労した一葉への日本銀行の思いやりなのでしょうか。
 
あの女性がいた東京の街―24のタイムトンネルの向こう側

あの女性がいた東京の街―24のタイムトンネルの向こう側

  • 作者: 川口 明子
  • 出版社/メーカー: 芙蓉書房出版
  • 発売日: 1997/05
  • メディア: 単行本

 

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