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日本橋川を下る [東京散策]

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日本橋川は神田川から分流し、日本橋の下を流れ、隅田川に注ぐ川です。
江戸時代、物流の手段は水運が中心でした。
馬の背による輸送力よりは、舟の輸送力が勝っていたことがその理由です。
現代の我々は忘れがちな事実ですが、河川を利用した輸送が盛んに行われていたのです。

江戸時代の日本橋界隈の繁栄は、この川によるところが多いと思います。
川面からの風景に、江戸の痕跡を探ってみたいと思い、10月の晴れた休日に出かけました。

写真は日本橋川から隅田川に出た船からの眺めです。
前方に、石川島、佃島あたりの高層マンションが立ち並びます。

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日本橋の下、野村証券の前あたりに船着き場がありました。
ここから船に乗り込みます。
船着き場の対岸は、魚河岸があった場所です。
魚河岸と言えば、市場を思い浮かべませんか。

本来、河岸は河川や運河、湖の岸にできた港や船着き場を指す言葉です。
船は物資の流通手段ですから、船着き場を介して、物資の集散が始まります。
当然のことながら、船着き場の近くに市場が出来上がることになります。
魚河岸が、船着き場から転じて、市場を指す言葉となる理由は、ここにあります。

江戸切絵図を眺めると、日本橋本舩町のあたりの道筋に「魚ガシ、芝ガシ、魚市バ、地引ガシ」との注記があります。
この場合の、魚ガシは魚を荷揚げする船着き場の意味でしょう。
芝ガシが芝浦あたりの漁師の魚の荷揚げ場、地引ガシは房総からの魚の荷揚げ場なのでしょうか。
江戸時代は河岸と市場は、まだ区別していたのでしょうか。

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乗船後、船は日本橋の下を潜り抜け、橋の上流でUターンしてから、川をくだります。
このアングルからの日本橋は、船上ならではの眺めです。

江戸時代、日本橋から江戸橋の間には、さまざまな河岸がありました。
『また、この河岸には、石垣で築かれた「土手蔵」が並んでいたが、江戸橋付近には、さまざまな名の河岸があった。
「塩河岸」とか、近郷の村々からの草花が着く「花河岸」、更には、千葉の木更津から具船が出入りする「木更津河岸」などがある。』(「読んで歩いて日本橋」白石孝著)
 
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江戸橋を過ぎ、鎧橋のあたりから証券取引所の建物が見られました。
日本橋川の南岸が兜町です。
兜町に鎧橋、何か関連があるのでしょうか。

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日本橋川は、流れの大部分が高速道路の下になっています。
物流が水上から陸上輸送に替った、世の移り変わりを象徴しているようですね。

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鎧橋の下流、湊橋まで来ました。
橋脚の帆船のレリーフが、この川の歴史を物語っています。
江戸湾、隅田川を経て、いろいろな商品がこの川を遡ったのでしょう。

かつての水運を想像させる建物もわずかながらありました。
川沿いに倉庫業の澁澤ビルや、三井倉庫の建物もあり、
そして、
ミツカンのロゴを掲げたビルは知多半島から米酢を運んだ名残でしょうか。

ミツカン酢の祖、中埜又左衛門、江戸での早ずしの流行を聞き、米酢の売り込みを図ったそうです。
これがミツカン酢の全国ブランドへ発展の礎となったのです。
遠州灘を越えて酢を江戸に運んだのでしょう。
神奈川沖、そして江戸湾、隅田川から日本橋川沿いの蔵に運び込まれた道筋を思い浮べました。

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日本橋川は、豊海橋の先で隅田川と合流します。
頭上を圧迫するように走る高速道路も無く、広々とした青空が広がります。
上流の清洲橋の彼方には、スカイツリーが望めました。
 
・・・余計なことですが、このスカイツリーのスタイルは私の好みではありません。
あちこちで遠慮なく顔をのぞかせる無神経さも、気に食いません。
江戸の情緒が吹っ飛びます。
許せるのは東京タワーまでだ、と思っています。


読んで歩いて日本橋―街と人のドラマ

読んで歩いて日本橋―街と人のドラマ

  • 作者: 白石 孝
  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2009/11/21
  • メディア: 単行本



 

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