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伝通院 [東京散策]

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伝通院は、家康の生母、於大の方の院号です。
無量山寿壽経寺という小さなお寺であったのが、於大の方の菩提寺となることにより徳川家の庇護を受けます。

写真は現在の表門です。
江戸時代の表門は春日通りあたりにあり、ここは中門になります。

江戸切絵図では、表門から中門の間には、「寮」と記載された数多くの区画が確認できます。
浄土宗関東十八壇林として学僧の修行場となっていました。
切絵図で当時の隆盛を知ることができます。

切絵図を仔細に眺めると、中門の左手に大黒天との記載があり、隣接して処静院と書かれた塔頭が確認できます。
幕末の、「浪士隊」発足の地です。
 
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浪士隊の発会の日は文久3年2月4日。
そして文久3年2月8日、234人の浪士達が、ここ伝通院から京へ向け出立しました。
三番隊隊士の中に、近藤勇、土方歳三、沖田総司らがおりました。
時に近藤28歳、土方27歳、沖田19歳。
みんな若い。
 
『近藤は門弟をあつめ、「いまどき、こんな田舎で道場剣術をやっていても仕方があんめえ、ひとつ、みんなで応募して風雲のなかに乗り出そうではねえか」といった。』(司馬遼太郎「歴史のなかの邂逅4、勝海舟~新撰組」) 
 
司馬遼太郎は新撰組という小文で浪士隊結成の経緯を書いています。
伝通院を舞台に事態は動いています。

「卓抜なプラン・メーカーである清川八郎は一案をたて、幕臣松平主税介忠敏を通じて、時の政治総裁松平春嶽に(浪士団結成を)上書し、・・文久2年12月8日、幕議はこれを決定した。」
 
「幕府では、講武所剣術教授方松平主税介をして徴募にあたらしめたとろ、たちどころに250余人を得た。」
 
「幕府は鵜殿鳩翁をして浪士の取り扱いにあたらしめたが、翌文久3年の春、京都に行動的な尊王攘夷論が沸騰しはじめたのをみて、この傭兵隊をいよいよ京都で使用することに決し、2月8日江戸を出発せしめた。」
 
200余名の隊列は、表門から本郷を経て中山道に向かったのでしょうか。
門前で、しばし当時の様子を想像します。

「不許葷酒入門内」は、処静院の前にあったという石柱です。

伝通院 016.jpg

江戸時代以降の歴史の舞台となり、江戸名所図絵のにも描かれる伝通院ですが、
昭和20年5月25日、小石川の空襲で本堂、山門その他の堂宇を焼失しています。
今日は奇しくも、空襲の日です。

伝通院 018.jpg
 
伝通院の由来でもある於大の方の墓です。
墓地だけは空襲の被害を免れ、現在も往時の姿を留めています。

浪士団のプラン・メーカー清川八郎の墓もここ伝通院にありました。

【2014年7月21日追記】
昨晩、久しぶりに司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んでいたら、近藤勇の道場と伝通院の位置関係が窺える記述がありました。
道場と伝通院の距離は、そんなに離れていないことが分かります。
「柳町(牛込柳町のことです。)の坂をのぼりきったところ、そこに近藤の江戸道場がある。
そのあたりは、緑が多い。
すっとむこうには水戸殿の屋敷(いまの後楽園)の森がみえ、まわりには小旗本の屋敷が押しかたまって、背後には伝通院の広大な境内がひろがっている。
町内に、法具屋、花屋など陰気くさい商売が多いのは伝通院と隣接しているからだが、町なかのわりには小鳥も多い。」

 
司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅〈4〉勝海舟~新選組 (中公文庫)

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  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2010/12/18
  • メディア: 文庫


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