越前北ノ庄(福井) [只今出張中]
福井市は、江戸時代の初頭まで北ノ庄と言いました。
そのころの面影を求めて散策をして見たいと思います。
とは言え、福井の町は昭和20年7月に空襲を受けています。
爆撃で市街地の93%が被災しています。
さらに追い打ちをかけたのが、福井大震災です。
昭和23年6月28日のことです。
当時、新聞記者であった司馬遼太郎が震災直後の福井に入っています。
「福井地震当時のこの町は、盛り上げられたマッチ箱を、木の大槌で千度もたたきつぶしたような光景に似ていた。」(街道をゆく「越前の諸道」)と書き残しています。
写真は福井城の北の外堀に設けられていた舎人門です。
もちろん復元です。
関ヶ原の役後、越前75万石の領主となったのは、家康の次男、結城秀康でした。
秀康の後を継いだのは松平忠直です。
忠直といえば、菊池寛の「忠直卿行状記」や海音寺潮五郎の「悪人列伝」で知られる人物です。
その乱行を幕府に咎められ豊後に流罪となっています。
そして、越前藩は32万5千石に減封されます。
弟の忠昌が藩主となったとき、北ノ庄の地名を福居と改めました。
北の字義に背く、敗れるという意味があり、過去の悲運を断ち切る意図があったのでしょう。
福居が転じて現在の福井に至るのだそうです。
しかし、福居とはなんともストレートな名前ですね。
写真は、養浩園です。
池に面した座敷に居ると、屋形船に乗っているような気分になってきます。
この養浩園は福井藩の重臣、永見右衛門の屋敷があったところです。
永見は忠直に誅罰を受けています。
忠直が右衛門の母親に懸想し、永見がこれを拒否したところ母子ともども殺されたという話が伝わっています。
史実かどうかはわかりませんが、忠直ご乱行のエピソードの一つとなっています。
その後、3代藩主忠昌時代に藩邸となり、御泉水屋敷と呼ばれます。
現在の養浩園の名称は幕末の四賢候と言われる松平春嶽の命名によるものです。
柴田勝家時代の北ノ庄城跡は現在の福井城本丸の南、足羽川の北岸にありました。
現在、柴田公園となっています。
越後の上杉謙信への抑えとして信長はこの地に柴田勝家を配しました。
北ノ庄城は当時安土城とならぶ規模であったそうです。
後日この城を攻めた秀吉の書簡によれば九重の天守であったといいます。
公園では発掘された石垣とその天守のミニチュアが見られます。
柴田勝家の銅像です。
いかにも血の気の多そうな風貌をしています。
ここは柴田勝家最期の地です。
そしてお市の方の最後の地でもあります。
公園にはお市の方の像もありましたが、写真は省略します。
女性は銅像には向かないと思いました。
上野の西郷さんや、この勝家みたいな体形や風貌に特異性があってこそ様になるようです。
この戦いも、後年忠昌が北ノ庄の地名を改めるに至る悲運の一つとなっています。
突然ですが、福井で食べたもの、ヨーロッパ軒総本店のソースかつ丼です。
薄め肉を細かいパン粉で包み揚げたカツにウスターソースで味付けされています。
カツ自体は新潟のタレかつ丼に似ていると思いました。
新潟の味は、天つゆに似た和風たれですが。
ヨーロッパ軒総本店の外観です。
パリ丼というメニューもありました。
カツのかわりにメンチカツがドンブリに載ります。
何故、パリ丼なのかわかりませんが。
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