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恋の手本となりにけり、大阪 [只今出張中]

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今週は大阪にいました。
朝日に照らされる淀屋橋です。
宿泊先の安土町から御堂筋を北に向かって散策しています。
目的地は曾根崎の露天神です。

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本町あたりから御堂筋を北上し、北浜を過ぎ淀屋橋を渡ると中之島です。
御堂筋に面して日本銀行大阪支店の建物が現れます。
中之島は市役所、公会堂、日本銀行などのある一角となっていますが、江戸時代は諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいました。
中之島の対岸、北浜は蔵元、札差など大商人が集まる町でした。
淀屋は江戸初期の蔵元です。
淀屋が店先で開いた米市が大阪の米市場の始まりです。
先ほどの淀屋橋は、米市に集まる客の便をはかるため淀屋が私費で架けた橋なんだそうです。

西鶴の日本永代蔵、巻一に「商人あまた有が中の嶋に、岡、肥前屋、・・・鴻池屋、・・・淀屋など、此のところ久しき分限にして」と淀屋の名前が見えます。

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中之島は土佐堀川と堂島川に挟まれた中州です。
中之島の北が堂島になります。
元禄期、堂島は蔵役人、蔵元などの商人たちの接待と遊興の場として栄えます。
近松門左衛門の「曾根崎心中」の主人公「お初」は、堂島新地の遊女でした。

写真は現在の北新地です。
北浜の米市場は元禄10年に堂島に移転をしています。
堂島にも蔵屋敷が立ち並ぶようになり、堂島新地の茶屋などはさらに北の曾根崎に移って行きました。
ですから現在の北新地はかつての曾根崎新地に当たります。
曾根崎心中は、元禄16年(1703年)4月7日の出来事ですから、遊興の里が堂島から曾根崎に移る過渡期にあたります。
おなじ近松の「心中天網島」は享保5年(1720年)の初演の作品ですが、曾根崎新地の遊女小春が主人公となっています。
この頃には北の新地の主役は堂島から曾根崎に移っていたのでしょう。

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北新地を過ぎてしばらく歩くと、露天神です。
堂島新地天満屋のお初と、内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛、心中の現場です。
この事件と近松の浄瑠璃の影響で通称お初天神と呼ばれています。

「この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えてゆく、夢の夢こそ、あはれなれ。」
お初徳兵衛道行の場です。

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「今は最期を急ぐ身の、魂のありかを一つに住まん。道を迷うな、違うなと、抱寄せ、肌を寄せ、かっぱと伏して、泣きゐたる、二人の心ぞ、不憫なる。」

やがて連理の木に身を縛り付け、心中の場面となります。

「さすがこの年月、いとし、かはいと締めて寝し肌に刃があてられるかと、眼も暗み、手も震ひ、弱る心を引直し、取直してもなほ震ひ、突くとはすれど、切先はあなたへはづれ、こなたへそれ、二三度ひらめく剣の刃、あっとばかりに喉笛にぐっと通るか、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と刳り通し、刳り通す腕先も弱るを見れば、両手を延べ、断末魔の四苦八苦、あはれといふもあまりあり。」

・・・・・むごい描写が続きます。

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拝殿にお賽銭を上げ、手を合わせ。
おもわず南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えました。
はっと気づけば、天神様ではありませんか。
・・・私以外にも、こんな参拝者も多いのではと思いました。

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境内には二人の像までありました。
天神様が霞んでみえます。
しかし、多くの参拝者の目当てはこっちなのでしょうね。

近松作品の締めくくりは「貴賤群衆の回向の種、未来成仏、疑いなき、恋の手本となりにけり。」です。
どこが恋の手本じゃ、心中奨励の物語のようで一向に納得感がありません。


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