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小林多喜二の小樽(小樽の街・裏編) [東京以外散策]

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2009年12月12日、新聞の夕刊に田口タキの死亡記事が掲載されていました。
タキは、プロレタリア作家小林多喜二の恋人でした。
16歳の時、多喜二と知り合い一時は同居生活を送りますが、その後家出してしまいます。
多喜二は1933年2月20日、特高警察の拷問を受け死亡します。
タキは別の男性と結婚し、2009年6月19日、102歳で亡くなりました。
終焉の地は横浜市中区でした。


この年の3月末まで横浜に住んで、勤務先は中区にありました。
意外な人物が近くに住んでいたことを知り驚いた記憶があります。
多喜二とタキの足跡をたどって小樽の街を歩きたいと思います。

多喜二は秋田県の出身です。
4歳の時、小樽で成功していた叔父を頼って家族とともに小樽に移住して来ました。
叔父の援助で小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業すると、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務します。
当時、北のウオール街と呼ばれた日銀通りの一角に拓殖銀行の小樽支店はありました。
小樽支店の建物は1923年(大正12年)の建築です。
多喜二は1924年6月の入行ですから、新築早々のこの建物で働いていました。
ホールは2階まで吹き抜け、6本の古典的円柱がカウンターに沿って並ぶ堂々たる建築です。
現在はホテルとして使われています。

ここを起点に「小樽の街・裏編」の散策を始めます。

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北海道拓殖銀行小樽支店のある交差点からしばらく歩くと日本銀行旧小樽支店の向かい側に市立小樽文学館があります。
ここは小樽ゆかりの作家の関連資料を収蔵展示しています。
多喜二のデスマスクもその一つです。
私以外の入館者はいなく、がらんとした館内を巡って、多喜二のデスマスクとしばらく対面していました。
観光客で賑わう小樽運河周辺や堺町通りとは大違いの寂しさでした。

題して「小樽の街・裏編」と名付け散策する由縁です。
人通りのないスポットを歩き回ることとなりそうです。

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かつての小樽の繁華街花園銀座通(花銀通)です。
多喜二は小樽高商在校時代から文学に親しみ始めます。
実家の貧しさや港湾労働者の生活の悲惨さを間近に見聞きすることで社会問題にも関心を持ちます。
入行早々、同人雑誌「クラルテ」(光明)を仲間と創刊し、「赤い部屋」などの作品を発表します。
花園には多喜二と同人が集まった越治喫茶店や、田口タキと出掛けた映画館「公園館」がありました。
丸文書店では、多喜二の「蟹工船」発売時には立看板を店頭に出し、2・3日で100冊を売り切ったそうです。
飲食店が並ぶ一角となっていますが、昼間なので閑散としていました。

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花園通りをしばらく歩き、左折すると丘にむかって上り坂となります。
頂上は水天宮の境内となっています。
1859年(安政6年)の建立と表示がありました。
小樽が江戸末期には交易港として栄えていたことを覗わせます。

境内からは小樽港と小樽の街並みが眺められます。
ここは多喜二とタキのデートコースでした。
人影がなく静かな一角でした。

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水天宮の丘からの眺めです。
多喜二とタキはここから小樽の街を眺めたのでしょう。
そして何を語り合ったのでしょうか。

タキは入舟町の銘酒屋の酌婦です。
タキの一家は多喜二の家以上の貧しさでした。
銘酒屋に身売りし、体をひさいで家族の生活を支える境遇でした。
多喜二がタキと出会ったのは入行の年の10月のことです。

水天宮の丘の下は堺町通りです。
堺町通りの喧騒が遠くに感じられます。

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水天宮から花銀通りに戻り、南小樽駅方面へ向かうと、道は下り坂になります。
入舟町は小樽駅と南小樽駅の間で谷底のような地形となっていました。
堺町通りから分岐する入船通りが山側に向かって伸びています。
通りから外れると狭い路地が入り組んだ街並みとなっています。

小樽は交易港でしたから、当然遊女が生まれます。
公娼街としては南廓と北廓の存在がありましたが、それだけではなく私娼街も生まれます。
入船町もそんな私娼街だったようです。
田口タキが身を置いた銘酒屋「やまき屋」は入舟町にありました。

やまき屋の面影を求めて迷路のような路地を歩いてみました。
今は住宅の多い一角となっています。

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路地で見かけた建物です。
時代を経た佇まいですが、昔は何をしていた建物だったのでしょう。

タキと知り合った多喜二は、酌婦の境遇から抜け出そうとするひたむきな姿勢のタキに感動します。
「闇があるから光がある」
そのころタキに宛てた手紙の中で多喜二がタキを励ました言葉です。

やがて多喜二は知人から借金をしてタキを身請けしました。
連れられてきたタキを、多喜二の母は赤飯を炊いて迎えたそうです。
多喜二とタキは同居をしましたが、結婚には至っていません。
多喜二の家族はタキに対してずいぶんと親切だったようです。
しかしタキは、多喜二の家族のなかで妻でもない自己の身分の不安定さを悩んだのでしょう。
1927年5月、タキは行方を知らせず小樽を去ります。
多喜二は一日中泣いて小樽の町を探し回ったそうです。

それから二人の間には違った人生が始まりました。
タキとの交際によって生まれた作品だけが残されています。
「曖昧屋」、「女囚徒」、「その出発を出発した女」、「最後のもの」、「瀧子其他」です。

数年前、「蟹工船」がちょっとしたブームになりましたが、このような作品もあります。


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