内藤新宿を歩く(その1) [東京散策]
甲州街道、一番目の宿場町内藤新宿を歩きました。
丸ノ内線四谷3丁目駅を下車して、新宿通りを西に歩きます。
韓国大使館の前を過ぎて、四谷4丁目交差点の先に四谷大木戸の碑があります。
ここから新宿3丁目、追分のあたりまで約1kmの間が宿場町でした。
甲州街道、一番目の宿場町は高井戸でしたが、日本橋から遠すぎるとのことで、内藤新宿が出来ました。
元禄12年のことです。
その後、享保3年には内藤新宿は廃止されます。
甲州街道は旅人が少なく、新しい宿であるため不要というのが公式理由なのだそうです。
内藤新宿が開設されると、旅籠屋や茶屋が増え、飯盛女や茶屋女が置かれ幕府非公認の岡場所として栄えました。
これが本当の廃止要因となっているようです。
その後明和9年に宿場として再出発するまで50年以上の中断期があります。
内藤新宿の再開には消費拡大政策を進める田沼政治のおかげもあったようです。
明和期には風紀面の規制緩和も行われ、品川、板橋、千住などの宿場町の飯盛女も増加しました。
内藤新宿も飯盛女を置く旅籠屋50軒、茶屋女がいる引手茶屋80軒と大発展します。
当時から続く大宗寺です。
新宿通りから少し奥まっていますが、江戸六地蔵が残るお寺でです。
内藤家の菩提寺でもあります。
そして、ここの閻魔堂の奪衣婆像が内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されていました。
閻魔堂の金網越しに覗いてみました。
奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り罪の軽重を図るといわれています。
たしかに右手に剥ぎ取った衣類が見えます。
衣類を剥ぎ取ることから、妓楼の商売神となったといわれています。
「しょうづかのばあさん」と呼ばれ厚く信仰を受けたそうです。
大宗寺の北、靖国通り沿いの成覚寺は投げ込み寺です。
年季明け前に亡くなった遊女たちはこの寺に投げ込むようにして葬られたそうです。
境内には「子供合埋碑」と刻まれた墓碑があります。
子供とは遊女を指しています。
同じ境内に旭地蔵があり、台座には18名の戒名が刻まれています。
この宿場で不慮の死を遂げた人々の戒名です。
うち7組の戒名は遊女とお客の心中だそうです。
「離着信女」「離合信女」と刻まれた戒名が悲しさを誘います。
白糸の塚もありました。
遊女白糸と青山百人町の武士鈴木主水の心中は歌舞伎にもなっています。
青山百人町と言えば、美濃郡上藩青山候配下の与力、鉄砲組百人衆が住んだ町です。
こんなところで郡上藩とつながりがある人物にお目にかかるとは思いませんでした。
「鈴木主水白糸口説き(くどき)」(流行り唄です)
花のエエ花のお江戸のその町々に
さても名高き評判がござる
ところ四谷の新宿辺に
軒を並べて女郎屋がござる
紺ののれんに桔梗の紋は
音に聞えし橋本屋とて
あまた女郎衆が皆玉揃ひ
中に全盛白糸様は年は十九で当世姿
立てば芍薬座れば牡丹
我も我もと名指しで上る
わけてお客のあるその中に
ところ青山百人町に鈴木主水といふ侍は
・・・・
成覚寺のある靖国通から新宿通へ抜ける仲通りです。
それとは知らずに紛れ込んだのですが、世界的にも有名なゲイタウンです。
ゲイバーやゲイグッズの店が並ぶ一角でした。
昔も今も新宿は風俗の町なのですね。
さて次は追分方面へ向かいます。
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