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八幡橋、深川で近代化遺産を見る [東京散策]

深川八幡橋 023.jpg
暑い一日でした。
深川の富岡八幡宮に来ています。
拝殿に到る参道は、日差しを遮る木陰も無く、眩暈がするような道のりでした。
そして今、社殿脇、大樹の下のベンチで涼んでいます。
時折吹く風が、汗ばんだ皮膚に心地よく感じられます。
 
深川八幡橋 027.jpg
境内では、深川まつりの準備が始まっていました。
職人さんたちのスタイルがいなせで、如何にも下町という風情です。
しばらく作業の様子を楽しみました。
深川八幡橋 013.jpg
さて、神社の脇に廻り、八幡掘の跡に向かいました。
八幡掘は埋め立てられ、現在は遊歩道になっています。
その遊歩道を跨いで架かる赤く塗られた鉄橋、八幡橋が今日の目的です。

明治11年(1878年)、工部省赤羽製作所が製作した鉄橋です。
国の重要文化財に指定されています。
初期の国産鉄橋です。
深川八幡橋 016.jpg
近づいて見ると、引張材を留める接合部に菊の紋章がありました。

日本最初の鉄橋は慶応4年完成の長崎のくろがね橋といわれます。
オランダ人の設計によると言われますから、純国産とは言い難いです。
続く鉄橋は、明治2年に架けられた横浜の吉田橋です。 
関内と伊勢佐木町を繋ぐ吉田川に架かる橋です。
今、吉田川は水の代りに車が流れる道路となり、橋も当時の橋ではありませんが。
これも、御雇外国人リチャード。ブラントンの製作の橋です。
 
新橋と横浜を結ぶ鉄道(明治5年開業)の橋も当時は木造橋でした。
木造橋は数年で腐食が進み、鉄橋への架け替えを迫られます。 

幕末期、佐賀藩がオランダから輸入した機械類を幕府に献上しています。
幕府から明治政府に引き継がれた機械が工部省の赤羽製作所の母体になります。
工部省赤羽製作所は日本の工業の近代化を担う組織であったわけです。
鉄橋製作についても、赤羽製作所に近代化への役割発揮が求められたのです。

八幡橋が製作された明治11年とは、そのような時代でした。
技術者たちが、誇らしげに菊の紋章を付けた気持ちがわかるような気がします。
 
深川八幡橋 010.jpg
明治維新後、西欧の文明に追いつくことが日本の課題でした。
そして、日本が西欧をキャッチアップしたのは戦後の高度成長期でした。
しかし、キャッチアップ後の日本の進むべき道、課題を官民ともに見つけることなく、日本はビジョンなき膨張に陥ります。
バブル時代への突入です。
以上は、先日読んだ「撤退戦の研究」の内容の一部です。
 
その後の展開はご存じのとおりです。
そして課題・ビジョンの発見には未だ成功していないようです。
日本の軌跡を改めて見直してみたら何かヒントは得られないかと、近代化遺産の見物散歩となりました。
結構、重い課題の散歩ですが、頭の体操気分です。
 
深川八幡橋 006.jpg 
価値観の多様化が進む現代、国民が共有できるビジョンを見つけることは困難ですね。
国家のかじ取りも難しい時代になったものです。(えらそうに言いますが)
ここは、神頼みしかないのかもしれません。
お詣りをして帰りましょう。
 
撤退戦の研究 (青春新書インテリジェンス)

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  • 作者: 半藤一利
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2015/07/02
  • メディア: 新書
 
 
 

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