武蔵国分寺 [東京散策]
武蔵国分寺跡です。
国分寺市は江戸の範疇に入るのか、よく分かりませんが、
国分寺市は江戸の範疇に入るのか、よく分かりませんが、
斉藤月岑の江戸名所図会にも取り上げられていますので、
カテゴリー「東京散策」で綴ってみます。
国分寺は、1333年、新田義貞君と北條さんの戦乱で焼失していますので、
今はこんな感じの原っぱです。
国分寺は、1333年、新田義貞君と北條さんの戦乱で焼失していますので、
今はこんな感じの原っぱです。
来てみて、二つのことを発見しました。
いや、大した事ではないのですが。
いや、大した事ではないのですが。
国分寺は、武蔵野崖線を背にして建てられていたということです。
西国分寺駅から国分寺跡を目指すと、途中、道は下り坂になります。
ずいぶんな下り坂でした。
下から自転車で登ってきた子供が、ふうふう云って、通り過ぎて行きました。
写真は今の国分寺の本堂です。
背景の木々は国分寺崖線を覆う樹木です。
ずいぶんな下り坂でした。
下から自転車で登ってきた子供が、ふうふう云って、通り過ぎて行きました。
写真は今の国分寺の本堂です。
背景の木々は国分寺崖線を覆う樹木です。
国分寺崖線は、多摩川の流れがつくった武蔵野台地の河岸段丘です。
段丘の崖下から地中を流れる水が湧き出て、これを地元ではハケと呼びます。
ハケについては大岡昇平の小説「武蔵野夫人」で知られるようになりました。
写真はハケの湧水です。
澄んだ水が涼しげですね。
段丘の崖下から地中を流れる水が湧き出て、これを地元ではハケと呼びます。
ハケについては大岡昇平の小説「武蔵野夫人」で知られるようになりました。
写真はハケの湧水です。
澄んだ水が涼しげですね。
武蔵国分寺跡の復元模型です。
左手に見える丹塗りの柱の建物が国分寺です。
右手の森が、武蔵野崖線にあたります。
左手に見える丹塗りの柱の建物が国分寺です。
右手の森が、武蔵野崖線にあたります。
古代人はハケの湧水を飲み水としたでしょうし、
流れは農耕に使用され、集落を形成したでしょう。
その延長線上に国分寺の造営があるのかもしれません。
これが、発見のその一です。
「ああ、そういう立地なのですね。」ということです。
その延長線上に国分寺の造営があるのかもしれません。
これが、発見のその一です。
「ああ、そういう立地なのですね。」ということです。
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