板橋で板橋を渡る [東京散策]
板橋駅前のロータリーで煙草を吹かしながら、今回の散歩コースに思いを巡らしていました。
見るともなく周囲を眺めていると、
金属の柱に石を乗せた意味不明のモニュメントの向こう、
ベンチの横に、裸婦像があります。
さらに裸婦像の後ろに何やら白い看板が見えました。
目を凝らしてみると「新撰組隊長近藤勇墓所」と書いてあるではないですか。
あそうか・・と、流山で官軍に捕えられた近藤勇が処刑されたのは板橋だったことを思い出しました。
「慶応4年4月25日、板橋宿手前の平尾一理塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。
その後首級は京都に送られ、 胴体は刑場から少し離れたこの場所に埋葬されました。」
墓所に掲げられた解説版の記載です。
銅像にはちゃんと首がついていました。(あたりまえですね)
【本ブログ関連記事】
2014年5月17日「甲州街道勝沼宿」
見るともなく周囲を眺めていると、
金属の柱に石を乗せた意味不明のモニュメントの向こう、
ベンチの横に、裸婦像があります。
さらに裸婦像の後ろに何やら白い看板が見えました。
目を凝らしてみると「新撰組隊長近藤勇墓所」と書いてあるではないですか。
あそうか・・と、流山で官軍に捕えられた近藤勇が処刑されたのは板橋だったことを思い出しました。
「近藤先生、おなつかしい。昨年の甲州勝山宿で一瞥以来ではないですか。」
「一昨年は、壬生の屯所でお目にかかりましたね。」
「一昨年は、壬生の屯所でお目にかかりましたね。」
墓碑の傍らの銅像に語りかけます。
「慶応4年4月25日、板橋宿手前の平尾一理塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。
その後首級は京都に送られ、 胴体は刑場から少し離れたこの場所に埋葬されました。」
墓所に掲げられた解説版の記載です。
銅像にはちゃんと首がついていました。(あたりまえですね)
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2014年5月17日「甲州街道勝沼宿」
2013年9月16日「新撰組の京都を歩く」
旧中山道に出て板橋宿へ向かいます。
板橋宿は京都よりから上宿、仲宿、平尾宿の3つ並ぶ宿場の総称と言われます。
その平尾宿の観明寺です。
この近所に平尾宿脇本陣の豊田家がありました。
近藤勇が処刑まで幽閉されていたところです。
勇は、自分の娘と同じ年頃の豊田家の娘を可愛がっていたそうです。
板橋宿は京都よりから上宿、仲宿、平尾宿の3つ並ぶ宿場の総称と言われます。
その平尾宿の観明寺です。
この近所に平尾宿脇本陣の豊田家がありました。
近藤勇が処刑まで幽閉されていたところです。
勇は、自分の娘と同じ年頃の豊田家の娘を可愛がっていたそうです。
平尾宿を過ぎて、仲宿まで来ました。
人通りも多く、なかなかの商店街です。
写真の街路灯が連なるさまを見て下さい。
米屋、八百屋が多いような気がしました。
スーパーもあるのに八百屋の商売が成り立っているのが不思議な気もします。
飲食店では中華料理屋が多い印象。
印度料理屋、韓国料理屋、アメリカ料理屋はあったけど、ロシア・フランス・イギリス料理屋は見かけませんでした。
もちろん居酒屋はあります。
仲宿のお寺、文殊院です。
道を隔ててスーパーマーケットがありますが、そのあたりが仲宿の脇本陣跡です。
皇女和宮が江戸入りの前日に泊ったところです。
和宮宿泊に際して板橋宿内の建物等の修理に費やされた費用は1,412両とも言われています。
人通りも多く、なかなかの商店街です。
写真の街路灯が連なるさまを見て下さい。
米屋、八百屋が多いような気がしました。
スーパーもあるのに八百屋の商売が成り立っているのが不思議な気もします。
飲食店では中華料理屋が多い印象。
印度料理屋、韓国料理屋、アメリカ料理屋はあったけど、ロシア・フランス・イギリス料理屋は見かけませんでした。
もちろん居酒屋はあります。
仲宿のお寺、文殊院です。
道を隔ててスーパーマーケットがありますが、そのあたりが仲宿の脇本陣跡です。
皇女和宮が江戸入りの前日に泊ったところです。
和宮宿泊に際して板橋宿内の建物等の修理に費やされた費用は1,412両とも言われています。
この1,412両は、おそらく宿場で負担した費用と思われます。
さて文殊院は脇本陣の飯田家の菩提寺でもありますが、
江戸時代の宿場女郎の墓があることでも知られています。
幕府の許可した板橋宿の飯盛女は150人であったといいますが、実数はもっと多かったようです。
皇女のための1412両の中には、飯盛女たちの稼いだ分も入っていたのでしょうか。
江戸四宿のうち内藤新宿の成覚寺にも、遊女たちの墓がありましたね。⇒「内藤新宿を歩く(その1)」
さて文殊院は脇本陣の飯田家の菩提寺でもありますが、
江戸時代の宿場女郎の墓があることでも知られています。
幕府の許可した板橋宿の飯盛女は150人であったといいますが、実数はもっと多かったようです。
皇女のための1412両の中には、飯盛女たちの稼いだ分も入っていたのでしょうか。
江戸四宿のうち内藤新宿の成覚寺にも、遊女たちの墓がありましたね。⇒「内藤新宿を歩く(その1)」
仲宿を過ぎるところが板橋です。
ここから先は上宿となります。
橋の解説文には、「板橋の地名は鎌倉時代の文献にも現れる」と書いてありますから、
12世紀ころには板橋が架かっていたのでしょうか。
もちろん今はコンクリートの橋となっています。
ここから先は上宿となります。
橋の解説文には、「板橋の地名は鎌倉時代の文献にも現れる」と書いてありますから、
12世紀ころには板橋が架かっていたのでしょうか。
もちろん今はコンクリートの橋となっています。
文久元年には皇女和宮がここを通り、
文久三年には浪士隊に加わった近藤勇以下が京へ向かって通り過ぎた中山道、
そして近藤が囚われの身を過ごした慶応四年の板橋宿、
橋の半ばに立ち、往時の中山道の行き交いを思い浮かべました。
【本ブログ関連記事】
文久三年には浪士隊に加わった近藤勇以下が京へ向かって通り過ぎた中山道、
そして近藤が囚われの身を過ごした慶応四年の板橋宿、
橋の半ばに立ち、往時の中山道の行き交いを思い浮かべました。
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