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上野東照宮参詣 [東京散策]

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以前、上野の東照宮を訪れた時は、修復工事中で社殿を拝観することが出来ませんでした。
工事も終了し、今年から公開されているとのことで、見物に出かけました。

人出で賑わう動物園の入口を横目に見て、東照宮へ向かいます。
こちらは人影もまばらでした。


東照宮 082.jpg

家康が駿府城で、その生涯を閉じたのは元和二年(1616年)4月17日のことです。
日光に小堂を建てるという遺言に従って同年10月から日光での神殿工事が始まります。
結果は小堂とは大違いの神殿となっていますが、
翌元和三年4月17日、久能山から日光への遷宮が行われています。
 
上野東照宮の創建は寛永四年(1627)のことです。
藤堂高虎の私邸内に祭られました。
時はすでに秀忠の治世から家光の代に移っています。

藤堂高虎は浅井家の足軽から始め、主君を何度も変えています。
特に、秀吉の死の前から徳川家康に接近をし、関ヶ原、大阪の陣では徳川方として活躍をしています。
小説などで変節漢として描かれる所以となっています。
私はむしろ時代を読む目を持った経営者として見たいと思っています。
家康の死後、秀忠、家光と将軍の座が引き継がれ、
徳川政権の盤石であることを見た高虎のパフォーマンスが上野東照宮ではなかったのかと思われます。
政権開祖を私邸に祭ることにより、徳川家への忠誠を示し、藤堂家の安泰の布石とした。
という見方はうがち過ぎでしょうか。

東照宮 062.jpg

現在の社殿は家光により、慶安四年(1651年)改築されたものです。
2009年から20013年にかけて行われた改修工事により、家光の改築工事当時の金ピカな姿となっていました。

家光にとって、徳川将軍家の始祖を祭る神殿が、藤堂家の私邸に有ることは示しのつかないことであったのでしょう。
家光の改築工事を経ることで、上野東照宮は幕府の公的な存在となって行きます。

江戸時代最盛期には全国に169もの東照宮があったと言われます。
その先鞭が高虎による上野東照宮の造営であったと思われます。
藤堂高虎の狙いは当たり、熊本の加藤家、広島の福島家など外様藩が改易されるなかで、藤堂家は幕末まで存続しています。

東照宮 074.jpg

社殿は本殿と拝殿を繋ぐ権現造りとなっています。
外陣に金箔をはった本殿は、眩いばかりです。
 
東照宮 038.jpg

その社殿を囲む透かし塀の彫刻を仔細に見て行くと、時間がドンドンと過ぎて行きます。

東照宮 047.jpg

花札みたいな図柄と言っては失礼でしょうか。
ここは、「奥山に紅葉 ふみわけ 鳴く鹿の 声に聞く時ぞ 秋は悲しき」古今集を思い浮かべるべきなのでしょう。

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透塀の彫刻をぐるりと見て来て、やっと唐門まで到達です。
日光東照宮の陽明門が「日暮門」と呼ばれるのも納得できます。

東照宮 079.jpg

さて藤堂藩のことですが、
井伊家は譜代の先鋒、藤堂家は外様の先鋒とするのが江戸期を通じての徳川の軍法でした。
幕末の鳥羽伏見の戦いにおいて、井伊家、藤堂家が揃って官軍に寝返ったのは知られている通りです。
当時、京に駐屯する官軍の数の劣勢は明らかでしたが、これで戦いの趨勢が決まったようなものです。

この時の藤堂家の寝返りは、何度も主君を変えた高虎になぞらえて、
「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と幕府軍側から揶揄されたそうです。

藤堂家の名誉のために、次のことも付け加えて置きます。
その後、日光東照宮攻撃を命じられた藤堂藩は「藩祖が蒙った大恩あり」として拒否し、筋を通したと言われています。

 

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