田端、タバタ、たばた(どっちからよんでもたばた) [東京散策]
「田端、田端、田端。おやぢの先生、子規先生のお墓のある田端。僕が福士先生と居た田端。芥川さんにおじぎをした田端。ポプラ倶楽部のある田端。いま又、岩田専太郎のところに金を借りに行く田端、タバタ、たばた。(どっちからよんでもたばた)」
サトウハチローの「僕の東京地図」は田端文士村とよばれた頃の田端を端的に表現しています。
田端文士村を歩いています。
写真は芥川旧居跡に向かう途中で見かけた、竹垣のある家です。
JR田端駅の南口を出ると、いきなり不動坂の階段が聳えています。
大正3年、田端に芥川龍之介が越してきました。
高下駄で雨の日に坂を上り下りするのは難儀だ、と友人に書き送っています。
田端は上野から連続して続く台地上にあります。
明治までは田園風景が広がる土地でした。
岡倉天心により東京美術学校が開かれると、美術を学ぶ若者たちがこの地に住み始めます。
まずは芸術家たちが集住する場所になったのです。
芥川は文士村の住人の嚆矢だったのです。
以後、文士が多く集まり住むようになりました。
大正から昭和初年の時代のことです。
不動坂を上ると、尾根状の台地の上に街路樹のある通りが通っています。
田端高台通りと名付けられています。
この通り沿いに先ほどのサトウ八ローや岩田専太郎などが住んでいました。
芥川龍之介の住居もこの高台にあります。
芥川の居宅は、今は賃貸マンションが建ち、標示板でかろうじて、それと知ることができるだけです。
芥川の居宅跡から、与楽寺坂を下ると、天然自笑軒の跡があります。
芥川が大正7年、塚本文と結婚式を挙げた料亭です。
結婚後、芥川は鎌倉に住みますが、しばらくして田端に戻ってきています。
天然自笑軒の向かいには、龍之介の主治医であった下島勲の楽天堂医院がありました。
下島は芥川の死を看取っています。
田端高台通りから谷田川通りまでは、ひたすら下りの傾斜地です。
その途中、赤紙仁王通り、東覚寺の赤紙仁王です。
仁王像に赤紙を貼って、祈ると治ると病気平癒すると信仰されています。
それで、仁王様は赤紙の塊となっています。
残念ながら龍之介の神経衰弱には効かなかったようです。
さらに坂道を下ると、谷田川通りに出ました。
谷田川は不忍の池に注ぐ川でした。
今は暗渠となり、殺風景な通りと化しています。
大正時代の写真を見ますと、小川のような流を挟んで道が続き、木々が道と流れに木陰をつくっています。
この谷田川沿いに萩原朔太郎、直木三十五、田川水泡、小林秀雄、堀辰雄、室生犀星などの住まいがありました。
そういえば、竹下夢二も大正10年、半月ばかりの短い期間住んでいます。
モデルであった、お葉(佐々木カ子ヨ)宅に同居したと年譜にはありますが、転がり込んだ印象ですね。
お葉は秋田生まれ、上京し、東京美術学校のモデルをしています。
その縁で田端に住んでいたのでしょうか。
夢二を知る以前には、洋画家の藤島武二、責め絵の伊藤晴雨のモデル(兼愛人)をつとめています。
お葉は、大正14年には夢二のもとを去っています。
夢二が山田順子にうつつを抜かしたのが原因かもしれません。
山田順子は秋田出身の作家で、やはり田端の住人でした。
「水は流るる」の作品がありますが、徳田秋聲、竹下夢二の愛人というほうが通りが良いかもしれません。
谷田川通り沿いの不動尊。
かつては川の流れを見つめていたお不動様も、ひたすら車の流れを見る時代です。
佐多稲子も谷田川の近くに住んでいました。
お不動様から川筋を隔てたあたりになります。
稲子が勤めていたカフェー「紅緑」もこの近く、不忍通りを越えた所です。
川の近くだけに、水っぽい話になってしまいました。
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