SSブログ

田端、タバタ、たばた(どっちからよんでもたばた) [東京散策]

田端 046.jpg


「田端、田端、田端。おやぢの先生、子規先生のお墓のある田端。僕が福士先生と居た田端。芥川さんにおじぎをした田端。ポプラ倶楽部のある田端。いま又、岩田専太郎のところに金を借りに行く田端、タバタ、たばた。(どっちからよんでもたばた)」
サトウハチローの「僕の東京地図」は田端文士村とよばれた頃の田端を端的に表現しています。
田端文士村を歩いています。

写真は芥川旧居跡に向かう途中で見かけた、竹垣のある家です。

田端 049.jpg


JR田端駅の南口を出ると、いきなり不動坂の階段が聳えています。
大正3年、田端に芥川龍之介が越してきました。
高下駄で雨の日に坂を上り下りするのは難儀だ、と友人に書き送っています。

田端は上野から連続して続く台地上にあります。
明治までは田園風景が広がる土地でした。
岡倉天心により東京美術学校が開かれると、美術を学ぶ若者たちがこの地に住み始めます。
まずは芸術家たちが集住する場所になったのです。
芥川は文士村の住人の嚆矢だったのです。
以後、文士が多く集まり住むようになりました。
大正から昭和初年の時代のことです。

田端 047.jpg


不動坂を上ると、尾根状の台地の上に街路樹のある通りが通っています。
田端高台通りと名付けられています。
この通り沿いに先ほどのサトウ八ローや岩田専太郎などが住んでいました。
芥川龍之介の住居もこの高台にあります。

芥川の居宅は、今は賃貸マンションが建ち、標示板でかろうじて、それと知ることができるだけです。

田端 042.jpg

芥川の居宅跡から、与楽寺坂を下ると、天然自笑軒の跡があります。
芥川が大正7年、塚本文と結婚式を挙げた料亭です。
結婚後、芥川は鎌倉に住みますが、しばらくして田端に戻ってきています。

天然自笑軒の向かいには、龍之介の主治医であった下島勲の楽天堂医院がありました。
下島は芥川の死を看取っています。

田端 034.jpg

田端高台通りから谷田川通りまでは、ひたすら下りの傾斜地です。
その途中、赤紙仁王通り、東覚寺の赤紙仁王です。
仁王像に赤紙を貼って、祈ると治ると病気平癒すると信仰されています。
それで、仁王様は赤紙の塊となっています。

残念ながら龍之介の神経衰弱には効かなかったようです。

田端 028.jpg

さらに坂道を下ると、谷田川通りに出ました。
谷田川は不忍の池に注ぐ川でした。
今は暗渠となり、殺風景な通りと化しています。
大正時代の写真を見ますと、小川のような流を挟んで道が続き、木々が道と流れに木陰をつくっています。
この谷田川沿いに萩原朔太郎、直木三十五、田川水泡、小林秀雄、堀辰雄、室生犀星などの住まいがありました。

そういえば、竹下夢二も大正10年、半月ばかりの短い期間住んでいます。
モデルであった、お葉(佐々木カ子ヨ)宅に同居したと年譜にはありますが、転がり込んだ印象ですね。

お葉は秋田生まれ、上京し、東京美術学校のモデルをしています。
その縁で田端に住んでいたのでしょうか。
夢二を知る以前には、洋画家の藤島武二、責め絵の伊藤晴雨のモデル(兼愛人)をつとめています。
お葉は、大正14年には夢二のもとを去っています。

夢二が山田順子にうつつを抜かしたのが原因かもしれません。
山田順子は秋田出身の作家で、やはり田端の住人でした。
「水は流るる」の作品がありますが、徳田秋聲、竹下夢二の愛人というほうが通りが良いかもしれません。

田端 022.jpg

谷田川通り沿いの不動尊。
かつては川の流れを見つめていたお不動様も、ひたすら車の流れを見る時代です。

佐多稲子も谷田川の近くに住んでいました。
お不動様から川筋を隔てたあたりになります。
稲子が勤めていたカフェー「紅緑」もこの近く、不忍通りを越えた所です。

川の近くだけに、水っぽい話になってしまいました。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。