SSブログ

前橋、トンテンポン [只今出張中]

前橋 007.jpg
先週は前橋へ行っていました。
市内を流れる広瀬川沿いに朝の散歩です。
水量の多い川面に柳の姿が影を落としています。

川沿いに遊歩道が整備されていました。
上流に向かって歩いています。
青空が広がる天気でしたが、残念なことに、赤城山は春霞にかすんでいました。

前橋 015.jpg
江戸時代、広瀬川は水運に使われていたそうです。
江戸時代の初期から上州は絹糸の生産地でした。
農家の副業として、養蚕、製糸が盛んで、絹糸の京への供給地でした。
横浜開港後は、輸出用の絹糸の生産地となります。

糸を紡ぐのは女たちの仕事でした。
よく言われる「かかあ天下」は、よく働く女たちを指して「うちのかかあは天下一」の意味なのだそうです。

そして、副業は農家に現金収入をもたらしました。
必然的に男たちは博奕に走ります。
「高崎藩御仕置例書」には寛政10年(1798年)から文政10年(1827)の30年間に71件という多数の博奕に関する事件が記録されているそうです。
結果として賭場を仕切る国定忠治、大前田英五郎など博徒が現れることになります。

川の流れを眺めながら思いを馳せました。
このようにして上州の人気(ジンキ)が培われてきたのだと。

前橋 012.jpg

突然、遊歩道際に佇むおじさんが出現しました。
口語自由詩で「日本近代詩の父」と呼ばれる萩原朔太郎です。

わが故郷前橋の町は赤城山の麓にあり、その家並は低くして甚だ暗し。

ふもとぢに雪とけ
ふもとぢに緑もえそむれど
いただきの雪しろじろと
ひねもすけふも光れるぞ
ああいちめんに吹雪かけ
吹雪しかけ
ふるさとのまちまちほのぐらみ
かの火見やぐらの遠見に
はぜ賣るこゑもきれぎれ
ここの道路のしろじろに
うなゐらのくらく呼ばへる家竝に
吹雪かけ
吹雪しかけ
日もはや吹きめぐり
赤城をこえてふぶきしかけ

朔太郎の「吹雪」です。
そういえば今年の2月の大雪も大変だったようです。
朔太郎像も、2月の前橋に雪が降るのを、この姿勢で眺めていたのでしょう。

江戸時代の文献には「不斗出者」という言葉が出てきます。
不斗出者は「ふとでもの」と読みます。
家、農地を放棄して、ふと出て帰らない者のことを言い、上州に多くいたようです。
土地に縛られ年貢を納めるという江戸時代の農民の制約からはみ出した者たちです。
生糸の流通による経済活動が生んだ人々の行動様式でしょうか。
故郷を捨て江戸に出た、塩原太助も「不斗出者」に当たるのでしょうね。

生涯、上京と帰郷を繰り返した朔太郎も「不斗出者」の人生を送ったような気がします。

前橋 004.jpg

前橋では偶然にも、旧知のY氏に会いました。
一夜、食事を共にしました。

赤城山麓では豚の飼育が盛んで、豚肉の出荷量が全国でも指折りなのだそうです。
市内にも種々の豚肉料理を提供する店があります。
これもその一つ、「トンテンポン」とメニューに載っていました。
「これってなあに?」と店のお姉さんに聞くと、
「豚肉の天ぷらのポン酢掛け」との説明でした。

トンテンポンでハイテンポで、お酒が進みました。

【追記】
たまたま「大江戸の正体」(鈴木理生著)を読んでいたら、不斗出者の行く先、江戸での反応を書いたくだりがありました。
その箇所(終章:怒涛のような貨幣経済)を引用をしておきます。
『たまりかねた幕府は、最後の改革である天保改革を実施する。江戸に集中した流浪者をもとに所に戻す「人返し」政策や、・・・・・いろいろな対策を講じている。
「人返し」は、大名領で食えなくなった農民が「封」内の農耕を放棄して、一季居や出代りなどの労務者ではなく、大都市江戸市街地内の流浪者として徘徊するものが増加したことへの解決策であった。
幕府としては、徘徊そのものは問題ではなく、「農耕を放棄」したという一点にこだわって、それらの流浪者の生国を確認してそれぞれの大名家の領内に送り返すことを命じている。』


大江戸の正体

大江戸の正体

  • 作者: 鈴木 理生
  • 出版社/メーカー: 三省堂
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本



nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。