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吉良邸から泉岳寺へ(1) [東京散策]

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本所松坂町の吉良邸跡へ行ってきました。
残念なことに現在、本所松坂町の町名はありません。
一帯の地名は両国で統一されています。
そして、今は一月場所の最中なので、このような光景が見られました。

今回のテーマは赤穂義士が、吉良邸から泉岳寺まで歩いた後を辿ってみることです。
何で今頃との疑問にお答えします。
赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは実は1月31日午前3時です。
討ち入りの日を目前にした時期の吉良邸の様子を覗いに行きました。

両国から永代橋 001.jpg
元禄15年12月14日寅の上刻の討ち入り、忠臣蔵は年末の出来事と理解していました。
最近気が付いたことなのですが、これって旧暦でしょう。
いまの暦ではいつなのと調べたところ、これが1月30日です。
正確には1月31日午前3時過ぎということになるそうです。

吉良邸の敷地の一部が公園として残されています。
残されているのは2,550坪あったという屋敷のごく一部です。
周りは高家の格式を示すナマコ塀で囲まれています。
両国から永代橋 005.jpg

上野介首洗いの井戸です。
午前3時過ぎ討ち入り、1時間の激闘の末、浪士たちは吉良の首を落としました。
この後、上野介の首級を内匠頭の墓前に捧げるために浪士たちは泉岳寺へ向かいます。
この道筋をたどってみたいと思います。

両国から永代橋 016.jpg

浪士たちは吉良邸隣の回向院の門を叩き、休息の場の提供を求めますが、午前6時前の開門は前例がないと拒否されます。
その後両国橋を渡ろうとしますが、奉行服部彦七に渡橋を押し留められます。
結局、浪士一行は隅田川左岸を下り永代橋を渡ることになりました。
両国橋たもとで休息をとったそうです。
こちらも、吉良邸跡門前の大川屋(創業明治2年)で「吉良まんじゅう」を頂き、しばし休息です。

両国から永代橋 037.jpg

竪川に架かる一之橋を渡り、隅田川左岸を進みます。
川沿いは幕府の御船小屋がありました。

さらに進むと芭蕉庵跡があります。
松尾芭蕉はここから奥の細道へ旅立っています。
赤穂浪士の義挙より13年前、元禄2年のことです。

写真は芭蕉庵近くの隅田川眺めです。
芭蕉の高弟、宝井其角は、赤穂義士の一人大高源吾と親交があったそうです。
大高源吾の句碑が両国橋東詰にあります。

「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」

討ち入り後、酒樽の鏡を抜かせて読める句・・・というのらしいです。

両国から永代橋 043.jpg

小名木川に架かる万年橋です。
北斎の富岳三十六景に描かれている橋です。
浪士一行もここを渡ったのでしょうか。

復興橋でしょうか、いまは優雅な鉄橋です。
さらに隅田川沿いに南下し、永代橋を目指します。

両国から永代橋 060.jpg

永代橋際の「ちくま味噌」の味噌と甘酒です。
創業は元禄初年、当主は俳句を通じて大高源吾との親交もありました。
通りかかった浪士一行を店内に招じ入れ、甘酒で慰労したそうです。
その甘酒の復刻版が上の写真です。

この店がなかなか見つけられず、交番で聞いて、やっと所在が判明しました。
店舗を構えず、しかも建物の2階に事務所を構えています。
これでは気づきようがありません。
事務所ドアを叩き、上記の品を分けてもらいました。
(羽田空港第一ターミナルビル内に直販店があるようです)

何故、早朝に甘酒が用意されていたか疑問でしたが、道路沿いに立つ碑を読んで分かりました。
たまたま、ちくま屋の上棟の日だったため、上棟式に用意された甘酒だったようです。
大高はお礼に看板を書き残しており、これが江戸の大評判となりました。

永代橋を渡り、泉岳寺への行程が続きます。


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